私がジャーナリストになった理由 前編

難民

自称ながらも学生ジャーナリストを名乗り、記事をハフポストに寄稿したり自分のホームページで発信している。

今までは自分の境遇を話すのは恥ずかしく、自分の心の中に閉まっていた。しかし、先日Chapter Two Tokyoで行われたイベントで、私がジャーナリストになった理由を話してから、聞いている人の食いつきが変わったと感じた。今考えれば当たり前のことだ。どこぞの馬の骨ともわからない人に、上から目線で語られても心に響かない。そこで今回は、簡単な自己紹介とジャーナリストになった理由を記したい。

名前は日下部智海(くさかべともみ)。

ともみと聞いて思い浮かべるのは可愛い女の子。しかし現実は顔の濃い男の子。誰も望まむギャップに苦しんできた。しかし社会の先生である父の一言に救われた。

「本当は幕府と名付ける予定だった。男のロマンだろ。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府、そして『日下部幕府』でも本気で反対されたからやめた」と。『日下部幕府』自分の苗字に幕府をつけて想像してみてほしい。産声を上げてから火葬されるまでの人生を。ともみで良かったと思えるようになった。

年齢は22歳。出身は福岡だが、幼少期の4年間を台湾で過ごした。明治大学に進学し上京した。高3の終わりに第2の故郷台湾を1人で訪れ、それ以来1人旅をするようになった。最初はアジアを中心に訪れていたがある日人生の転機が訪れる。大学の超域文化の授業でペトラ遺跡を知りその壮大さに感化されヨルダンを訪れる事にした。この決断が私の人生の全てを変えた

飛行機を乗り継ぎ首都アンマンにあるアンマン・クイーンアリア国際空港に到着し、空港からバスに乗り市内に出た。バスの終点は町外れにありタクシーに乗って市内に行くのが一般的だ。しかし10km以内は歩くという自分ルールに則り、ホテルまで7km歩く事にした。初めて歩く中東。灼熱の太陽、砂混じりの風、どこまでも広い空、全てが新鮮だ

そんな高揚感に包まれながらの7kmはあっという間だった。街の中心部に着き、人混みを歩いていた。お腹が減り屋台でご飯を買おうとポケットに手を入れた。しかしそこはもぬけの殻だった。バスを降りるまで確かに感じていたポケットの重みを今は感じない。全てを悟った。言葉も通じない、知り合いもいないこの国で一文無しになったのだ。今まで何不自由なく生きてきた。しかし或る日突然全てを失った。自分はこの場において1番弱い存在だと感じ、その場に立ち尽くした。恐怖と絶望が私を動けなくさせた。

頭の中が真っ白になり徐々に意識が薄れていく中、突然右肩を叩かれた。ビクッとなりながら振り返ってみるとそこには1人の男が立っていた。私の不安に覆われた瞳を見て、彼は慌てて、けれど優しさを忘れずにこう言った。「大丈夫か?」とても拙い英語だった。しかしそんな事どうでも良いくらい、その言葉は私を落ち着かせた。

「財布と携帯を無くした。一文無しなんだ。」と私は答えた。

彼はそれを聞いて笑みを浮かべながら「なんだ、そんな事でこの世の終わりみたいな顔してたのか」と言った。

その時はまだ理解できなかった。なぜ彼が私の境遇を聞いて笑みを浮かべたのか。そして「そんな事」扱いできるのか。

彼は続けてこう言った「俺なんか故郷を失った。家も仕事も友人もそして愛すべき家族も。でもこうして生きている。だからお前も大丈夫さ」と。

言葉の意味を理解できずにポカんとしていると、英語が通じなかったと勘違いした彼がGoogle翻訳で説明してきた。そして私は全てを理解した。

彼はシリア難民だった。シリアは内戦中で、EUに大量の難民が逃れていることは知っていた。しかしそれ以上興味はなくヨルダンにシリア難民がいることは知らなかった。彼は私が初めて出会った難民だった。自分と似た境遇の人に出会い少し安心したと同時に、彼も難民という苦しい立場なので私を助ける余裕はないだろうと思った。

そんな打算をしていた私に彼は言った「お前、大丈夫か?俺の家に泊めてやるよ」と。

衝撃的な一言だった。自分には理解できなかった。彼は難民で生活が苦しいはずなのに、なぜ初対面の外国人を助けるのか。自己責任論が隆盛を極め、自分の生活が苦しいからと生活保護受給者を攻撃する日本で育った私には、彼の慈愛の心が奇妙に感じた。当時の私はとても哀れな人間だった。

哀れな私は彼に聞いた「なんで俺を助けるの?」

彼は答えた「困っている人を助けるのは当たり前だろ」と。

「君は難民で生活が苦しいだろう?別に僕を助けなくてもいいんだよ」と私は返した。

すると彼は、「確かに俺の生活は苦しいかもしれない。でも今困っているのはお前だろ。だから助けるんだよ」と言った。深い愛に満ち溢れた彼を見ていると様々な感情が浮かび上がり涙が出てきた。

歩いて彼の家に向かった。喪失感を抱えながら歩いていると、とてもとても長く感じた。彼が指差した家はとても古い家だった。彼の家に入ると1人の老婆が私を迎えてくれた。彼の母親だ。

床に座っていると、「お腹減ってるだろう」と言ってパンを持ってきた。日本で食べるようなパンではない。何も味がついてない小汚いパンだった。しかし言葉で表現するのは勿体無い特別な味がした。今でもあのパンを超える料理に出会ったことはない。生涯出会うことはないだろう。

パンを食べながら、私たちは自己紹介をした。彼の名はアリ。ダマスカス出身の26歳だ。シリアで内戦が勃発しヨルダンに逃れ、母親と2人で暮らしている。彼には私と同い年くらいの弟がいた。しかし、弟と父親は内戦で犠牲になったそうだ

それからお互いの国のことや、現在の生活などについて話した。帰りの飛行機まで彼の家に泊まることになった。2週間ほど彼の家に泊まり、食事を頂き、街を歩き、彼らと話す日々。彼と彼のお母さんのお陰で自分は生きていると感じた。彼らへ対し感謝してもしきれないほどの恩を感じた。

帰国の日になった。しかし、日本へ帰りたくなかった。今日彼らと別れたら二度と会えない気がしたからだ。彼らに帰りたくないと伝えた。

すると彼はこう言った「帰らなきゃだめだ。日本には君の帰りを待つ人がたくさんいるだろ。愛する人が帰って来ないつらさを俺は知っている。ふとした時に胸が張り裂けそうになるんだ。だからお前は帰るんだ。俺みたいな人をこれ以上増やしたくない。だからお前は帰るんだ。」と。

「分かってる。でも二度と会えないかもしれないじゃないか」と私が返した。すると彼のお母さんが、泣いちゃだめだと言わんばかりに優しく抱きしめてくれた。

そして彼は言った「確かにそうかもしれない。俺たちだって会えないのは悲しいさ。でも会う事よりも大切なのはお互いが同じ気持ちを持って生きて行く事だ。俺がともみにしたように、誰か困っている人をともみが助ける度に、ともみは俺らの事を思い出す事ができる。」と。

私はその言葉を胸に刻んだ。彼らとの思い出を忘れない為にも、そしていつの日か彼に会った時に胸を張れるように彼のような立派な人間になると心に決めた。

ペトラ遺跡に行くことはできなかったが、自分の人生においてとても重要な2週間になった。人の温かみを知り、目の前に困っている人がいたら助けるという当たり前だが、とても難しいことを改めて教えて貰った。それと同時に、彼らシリア難民の為に自分も何か恩返しがしたいと思った。でもその時はまだ何をすれば良いのか分からなかった。

後編へ続く

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